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山岳寺を焼き討ちした武将 その1

織田信長の四天王の一人でもある、滝川一益(いちます/かずます)は山岳寺を焼き討ちしました。織田四天王には、柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀です。

滝川一益とは?

父は滝川一勝もしくは滝川資清と言われていますが、この2人は同一人物説もあります。近江甲賀郡の国人と言われていますが、どのような人物であったかという点については今日まで定説を見ません。また、兄として高安範勝が挙げられることもありますが、一族(父の従兄弟)とする系譜もあります。また、池田恒興と同族(従兄弟)とされる場合もあります。

甲賀出身という説の他にも、志摩の国人・九鬼嘉隆が織田信長に仕官する際に一益が紹介したこと、婿の滝川雄利は伊勢国司北畠氏の一族木造氏の出身であること、長年伊勢攻略を担当し、攻略後も北伊勢に広大な所領を与えられていることから、伊勢または志摩出身とされる場合もあります。また、忍者であった?!という説もありましたが、明確な根拠がありません。

黒、赤、金を好んでいたようで、重要な戦の時には必ずこの3色の甲冑並びに、羽織を着用していたとの記録が残っています。

諱(いみな)は、一般には「かずます」と読まれていますが、『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』に「いちます」とあります。「一」を通字とした子孫も本家は代々「いち」と読んでいます。(分家では「かず」と読んでいる)このため、「かずます」ではなく「いちます」の方が正しいとする説がありますが、当時としては音読みさせることは珍しくて、読みについても今日まで定説を見ません。通称として「彦右衛門」とされることもありますが、これは同姓の全くの別人です。

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滝川一益の生涯 その1

織田家仕官

1525年(大永5年)に、滝川一勝(または滝川資清)の子として誕生しました。尾張の織田信長に仕えるまでの半生は、まったくの不明です。父が甲賀出身であるとする立場から考えると、近江の六角氏に仕えていたとされることも考えられています。江戸時代、水戸藩の佐々宗淳から織田長清に送られた書状によると、滝川家はそれなりに由緒ある家でしたが、一益は博打を好んで不品行を重ねたため、滝川家の一族に追放されました。そのため尾張津島の知人のところに身を寄せたといいます。

信長に仕えた時期は不明ですが『信長公記』首巻によると、信長が踊りを興行したときには「滝川左近衆」が餓鬼の役を務めたという記述があるので、この時期には既に信長の家臣になっていたと考えれます。その後「幼年より鉄砲に長ず。河州にをひて一族高安某を殺し、去て他邦にゆき、勇名をあらはす」(寛永諸家譜滝川)となっています。この鉄砲の腕前により仕官したという説が有力です。

伊勢攻略

1560年(永禄3年)一益は、「北伊勢の桑名は美濃との境であり、患となる可能性がある為、桑名長島の地を得、北畠氏や関氏に対し備えようと思う」と信長に進言します。まずは尾張荷ノ上の土豪で長島城主・服部友貞の資金によって蟹江城を構築します。そして、友貞を放逐して、蟹江城主となりました。1563年(永禄6年)には松平家康(後に徳川に改姓)との同盟交渉役を担いました(清洲同盟)。

1567年(永禄10年)、1568年(永禄11年)の2度に渡る伊勢攻略の際には攻略の先鋒として活躍しました。源浄院主玄(後の滝川雄利)を通じて、北畠具教の弟で木造家の当主・木造具政を調略、具教が大河内城を明け渡した際には城の受け取りを任されて、戦後は安濃津・渋見・木造の三城を守備することを命じられました。

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長島一向一揆と石山合戦

1570年(元亀元年)9月、石山本願寺の反信長蜂起に伴う石山合戦が始まりました。そして長島一向一揆も一斉に蜂起することになり、11月には信長の弟・織田信興が小木江城で討ちとられ、一益も桑名城にこもりました。その後、北伊勢で長島一向一揆と対峙しながら、尾張守備、家康の支援、更に遊軍として各地を転戦することになりました。

1572年(元亀3年)には、佐久間信盛たちと共に三方ヶ原の戦いにおいて家康のろう城を支援します。1573年(天正元年)の一乗谷城の戦いに参戦します。1574年(天正2年)、3度目にあたる長島一向一揆鎮圧に際しては九鬼嘉隆らと共に水軍を率いました。その際には、海上から射撃を行って織田軍を援護しました。この功によって長島城と、北伊勢8郡のうちの5郡を拝領することになりました。

1575年(天正3年)、長篠の戦いに参陣して、鉄砲隊の総指揮を執りました。また同年には越前一向一揆を攻略します。1576年(天正4年)の天王寺合戦、1577年(天正5年)の紀州征伐に参陣します。1578年(天正6年)の第二次木津川口の戦いでは、九鬼嘉隆率いる黒船6隻と共に、一益の白船1隻が出陣したことから、鉄甲船建造に関わっていることが分かりました。1579年(天正7年)11月まで続いた有岡城の戦いでは上﨟塚砦の守将を調略して、有岡城の守備を崩壊させることになりました。この2つの敗戦によって、石山本願寺への兵糧や武器の搬入は滞るようになり、1580年(天正8年)4月、本願寺法主・顕如は信長に降伏することになりました。

1580年(天正8年)、小田原城主・北条氏政が信長に使者を送った際には、武井夕庵・佐久間信盛と並んで関東衆の申次を命ぜられました。この年に佐久間信盛が追放されたことから、関東衆、特に後北条氏の申次は一益が行うことになり、翌年に氏政が信長に鷹を献上した際にも申次を務めています。1581年(天正9年)には伊賀攻めに参陣して、甲賀口より攻め込んでいます。

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