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山岳寺を焼き討ちした武将 その3

滝川一益の人物と逸話

  • 若年の頃泉州堺に出て、鉄砲の射撃と製造技術を学んだといわれています。百発百中の腕前を披露することによって、信長に召抱えられたという話があるので、朝倉家における明智光秀との共通点です。
  • 伊勢水軍を率いる水軍の将でもありました。九鬼嘉隆と長島一向一揆鎮圧から蟹江城合戦まで多くの海戦を共にしています。第二次木津川口の戦いでは白い安宅船で参戦していますが、これが鉄甲船か試作を兼ねた白木船かどうかははっきりしていません。
  • 「進むも退くも滝川」(攻めるも退却も上手な)と呼ばれ、織田四天王の1人として数えられている。
  • 秀吉が催した大徳寺での信長の法要に出かけた時には、「滝川殿の席はありませぬ」と門前払いさました。
  • 孫の滝川一積が仕えた中村氏の中村一氏は、甲賀二十一家の1つ、瀧(多喜)一政の子で、初め滝孫平治と言っていたので、一益の同族と考えられます。
  • 関東時代に縁を得た真田家とは非常に親しくなった様子で、廃嫡された一忠は真田家に身を寄せました。孫の一積は未亡人だった真田昌幸の娘を娶ることになりました。一積は真田信繁の娘達にも、良縁を持ち込んでいます。
  • 一益の晩年は不遇だったと言われていますが、上野厩橋(群馬にあった城)で鶴の周りで自由気ままに飛ぶ雀を羨ましがったという逸話も残っています。
  • 前述の通り領土より茶器を所望したという逸話もあります。晩年には秀吉を茶会に招いたといいます。
  • 晩年の領地があった福井県では、最後に失明して出家したとも伝えられています。「晩年は不遇だった」という伝承と、晩年の逸話がほとんど残らないなどの話を補強する一説になっています。
  • 失明出家した一益が、京都の寺から領国の越前大野郡への帰途、越前の今立大滝という地に立ち寄りました。ここから山を越えて大野郡へ帰る一益を、かつて信長の越前一向一揆攻めの際に滝川軍に焼き討ちされたことを恨みに思う大滝村民(大滝神社を中心とした、平泉寺傘下の在地勢力)が襲撃して、一益は惨殺されたと大滝の地元では伝えられています。遺体は近隣の味真野霊泉寺に葬られたとされていて、一益の鐙と伝わる品が大滝神社に伝わっていますが、この話は、「信長の配下の武将で、晩年失明し、越前で一揆勢に惨殺された」という点まで前波吉継の話とよく似ているため、混同しているのでは?と推測されます。
  • 信長より拝領して佩刀(はいとう)していたと伝わる刀が現代に伝えられています。重要文化財に指定されています。(古備前高綱太刀 附 朱塗鞘打刀拵(こびぜんたかつなのたち つけたり しゅぬりうちがたなこしらえ)鎌倉時代に作刀された質実剛健な刀身に、桃山時代に流行した「桃山拵(ももやまこしらえ)」と呼ばれる華美な刀装を組み合わせたもので、往時の武将の装いを現代に伝える貴重な逸品です。現在は静嘉堂文庫美術館(東京都世田谷区)に所蔵されています。

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滝川一益をまとめよう!

  • 生きた時代 ・・・ 戦国時代 安土桃山時代
  • 生誕  ・・・ 1525年 大永5年(大永は1521年~1527年まで)ちなみに柴田勝家は1522年大永2年生まれ
  • 名前 ・・・ (幼名:久助)、一益
  • 戒名 ・・・ 道栄
  • 別名 ・・・ 通称:彦右衛門、(号)不干、入庵
  • 墓所 ・・・ 霊泉寺(福井県)、信楽寺(島根県松江市)
  • 官位 ・・・ 従五位下左近尉、左近将監、伊予守
  • 氏族 ・・・ 滝川氏
  • 父母 ・・・ 父:滝川資清
  • 兄弟 ・・・ 高安範勝、一益
  • 妻  ・・・ 不明
  • 子  ・・・ 一忠、一時、辰政、知ト斎、 娘(滝川雄利室)、娘(雲林院祐光室)、 娘(秋山直国室)、 養子:忠征、津田秀政室
  • 主君 ・・・ 六角定頼→織田信長→秀信→豊臣秀吉

勝負を決めた蟹江城合戦 その1

1584年(天正12年)6月に起きた、羽柴秀吉陣営VS織田信夫・徳川家康陣営で行われた争いの蟹江城合戦です。江戸前期の儒医・江村専斎は、「賤ヶ岳の軍は、太閤一代の勝事、蟹江の軍は、東照宮一世の勝事也」 と述べていて、「蟹江城合戦」こそが徳川家康の生涯における最も重要な勝利であると評しています。

そして、昭和の小説家の海音寺潮五郎は、滝川一益の蟹江城合戦での行動について、「蟹江城を手に入れて、長島城と清洲城の連絡を断ち切ろうとした戦略は、滝川のすぐれた謀略を十分に証明している。ぼけてはいない。ただ、彼はそれまで浪人していたために、よい部下が少なくなっていて、大野城の攻略に失敗したり、潮時が悪かったりしたために、万事皆うまく行かず、ついに手も足も出せなくなった。運命に見放されていたといわざるを得ない。」と述べています。この勝負の2年後に、滝川一益は亡くなりますが彼の最後の戦でもありました。

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蟹江城合戦の前夜

1584年(天正12年)4月に合戦した小牧・長久手の戦い以降、尾張北部の戦線は防御陣地の構築によって膠着状態に陥っていました。家康は清洲城、信雄は桑名城、秀吉は大坂城にそれぞれ帰還していました。

尾張北西部においては、羽柴勢が5月4日から美濃の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を大軍で囲み、水攻めなどで順次攻略していきましたが、家康は清洲城から動きませんでした。(竹ヶ鼻城の水攻め)

そして尾張南西部では、秀吉はすでに出家していた滝川一益と、その嫡子一忠をそれぞれ3千石、1万2千石で起用して、諸城攻略を命じています。そして一益は、織田信雄側の水軍の将九鬼嘉隆とは、多くの戦場を共に戦った仲で、いわば戦友でもありました。

その頃、織田方の蟹江城主佐久間正勝は、信雄の命によって伊勢国の萱生に砦を築くために、蟹江城の留守を前田城主前田長定(種定)に預けていました。

この頃の蟹江城は、清洲城から三里の場所に位置していました。三重の堀と、大野城・下市場城・前田城の3つの城と連携していました。その当時、蟹江は海に面していたため、熱田、津島と並ぶ尾張有数の港でもありました。前田種定は滝川一益と同じく、加賀前田家の親類でした。そして滝川一益は過去に、桑名城主でもあり、蟹江城主でもありました。

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