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山岳寺を焼き討ちした武将 その4

勝負を決めた蟹江城合戦 その2

蟹江合戦その経緯

1584年(天正12年)6月16日、前田長定は、秀吉陣営の調略を受け入れます。受け入れと同時に長定の弟・前田長俊(利定)の守る下市場城及び、長男・前田長種の守る前田城も秀吉陣営となっていましたが、大野城の山口重政は母親を人質に取られているにも関わらず調略に応じなかった為に、滝川と寝返った九鬼勢は城攻めを行い、陥落寸前まで追い込みました。

同日6月16日、蟹江城落城の報せを聞いた家康・信雄は大軍を率いて蟹江城に急行します。陸路を断たれた滝川勢は海上経由で蟹江城に、九鬼勢は下市場城にそれぞれ逃れ篭城しました。家康は大野城に入城します。

6月18日、下市場城が落城して、前田長俊が討ち取られます。

6月19日、舟入の戦いにおいて九鬼嘉隆が敗北します。織田・徳川陣営による海上封鎖が完成しました。

6月21日、秀吉が美濃から近江・佐和山城に移ります。

6月22日、蟹江城包囲されます。南方から酒井忠次、北方から大須賀康高、西方から織田信雄、東方から服部正成が城を攻めます。

6月23日、前田長種の守る前田城が落城します。

6月24日、秀吉が一益の蟹江城攻略を知り、近江・土山に移ります。

6月25日、秀吉が伊勢・椋本に移り、信濃の木曾義昌に尾州西側からの総攻撃予定(7月15日)を伝えます。

6月29日、和平交渉が開始されます。

7月3日、和睦によって織田・徳川方が蟹江城を奪還します。そして退去中の長定が殺害されました。一益は伊勢に逃れます。秀吉は、伊勢に羽柴秀長、丹羽長重、堀秀政ら6万2千の兵を集めて尾張の西側から総攻撃を計画していましたが、間に合わなかったため中止となりました。

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蟹江合戦その後

7月5日、家康が、桑名城に入城します。

7月12日、起用の際の約束通りに、秀吉から一益に3千石と、一益の子一時に1万2千石の地が与えられます。

7月13日、家康、清洲城に帰還します。

7月29日、秀吉、美濃・大垣城から大坂城に帰還します。

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蟹江合戦の影響

蟹江城合戦を結果的にみると、小牧・長久手の戦いにおいて秀吉が合戦で家康に勝つ最後のチャンスでもありました。しかし、 秀吉は長久手の戦いに加えて、この蟹江城合戦でも主戦力の投入に失敗したため、これ以降攻勢にでる事はありませんでした。

当時の秀吉政権は蒲生氏郷、佐々成政、丹羽長秀、堀秀政、前田利家などからなる旧織田家の寄せ集まりだったということに加えて、紀伊国の雑賀衆・根来衆の北上、土佐国、阿波国、讃岐国を攻略し四国統一に迫る長宗我部元親の圧迫と、九州に敵無しの状態だった島津氏の躍進などもあったために、前線に集中することができなかったといえるでしょう。その秀吉に対して家康側は、日照りにも助けられましたが、家臣の統率がとても良く、その上関東の北条家とも利害が一致していたために、家康自身が常に前線に立ち、迅速な行動を取ることが出来ました。

この戦いによって、前田本家でもある尾張前田氏は、城主と城を失いました。また前田城を守っていた前田長種は、妻の実家である前田利家を頼って、二代目藩主前田利常の養父となりました。その結果、織田信雄は、家臣の津川義冬・岡田重孝・浅井長時に続いて、前田一族も失ったことになりました。

滝川家はこの戦いによって大名に復帰しましたが、嫡男の一忠は追放処分とされました。 また家督を相続した次男の一時は、この時の活躍が家康の目に留まり、後に家康から2千石を与えられることになりました。

九鬼嘉隆はこの戦いから秀吉に直接大名として仕えることになり、翌年の天正13年(1585年)に従五位下・大隅守に叙位・任官されました。

一方、弱冠20歳であった佐久間家家臣の山口重政はここで得た徳川氏との縁によって、紆余曲折の後、常陸牛久藩の初代藩主となりました。

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