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僧兵 その2

戦国時代の有力僧兵団 その2

近畿地方

  • 石山本願寺・・・独自の僧兵集団ではなく、各地の門徒(多くは国人や庶民)を動員した一向一揆を通じて絶大な影響力・軍事力を誇りました。石山合戦に敗れ壊滅して、軍事力を喪失。
  • 高野山・・・真言宗の開祖・空海(弘法大師)が開山しました。高野衆と称された大規模な僧兵集団を擁して、1581年(天正9年)、紀州征伐の際は信長勢を撃退しています。信長の死後、1585年(天正13年)に豊臣秀吉によって行われた紀州征伐の際には、秀吉の降伏勧告に応じて、軍事力を喪失しました。
  • 聖衆寺 (桑名市)・・・千人もの僧兵を抱える真言宗の大寺院でしたが、天正年間(1573年 - 1593年)に織田信長の家臣滝川一益の北伊勢侵攻の際に焼き討ちされて壊滅的な被害を受けました。江戸時代になってから焼け残った堂宇(どうう)で復興はしましたが、かつての面影はありません。
  • 根来寺・・・真言宗から独立した新義真言宗の寺院で、根来衆とよばれる僧兵1万を擁した紀州屈指の大勢力でした。また、根来寺僧によって種子島から伝来したばかりの火縄銃一挺が持ち帰られたことをきっかけに、津田流砲術の開祖・津田算長をはじめとした、強力な鉄炮隊を保持していました。1585年(天正13年)、豊臣秀吉による紀州征伐で制圧され、軍事力を喪失しました。
  • 三岳寺・・・平安時代初期の807年(大同2年)に最澄(伝教大師)によって開かれたと伝わる、天台宗山門派の大寺院で、元々鈴鹿山脈の国見岳にありました。織田信長が比叡山焼き討ちを行う3年前の1568年(永禄11年)に織田信長の命によって、滝川一益の軍勢が押し寄せ、当時三岳寺には数百人もの僧兵が居て勇敢に戦いましたが、多くの堂宇がことごとく、兵火により灰塵になりました。
  • 粉河寺・・・天台宗系の寺院で、粉河衆と称された中小規模の僧兵集団を擁していました。1585年(天正13年)、豊臣秀吉による紀州征伐で制圧されて、軍事力を喪失しました。
  • 日前神宮・國懸神宮・・・広大な社領を有して、地方大名に匹敵するほどの武力をもっていました。実際に、雑賀衆と度々武力衝突を起こしています。1585年(天正13年)、豊臣秀吉による紀州征伐で制圧され、軍事力を喪失しました。
  • 多武峰妙楽寺・・・興福寺と度々武力衝突を起こしました。1585年(天正13年)、大和に入国した豊臣秀長の武装解除要求に応じて、武具を供出しました。
  • 金峯山寺・・・多くの僧兵(吉野大衆と呼ばれた)を抱え、その勢力は南都北嶺(興福寺と延暦寺の僧兵を指す)にも劣らないといわれました。1585年(天正13年)、大和に入国した豊臣秀長の武装解除要求に応じて、武具を供出しました。

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東北地方

  • 出羽三山・・・修験道場として隆盛して、最盛期には8千人の僧兵を擁しました。豊臣秀吉の刀狩りに応じて武具を供出しました。

関東地方

  • 日光山輪王寺・・・多数の僧兵を抱えて、下野でも有数の武装勢力になりました。後北条氏に加担したため、豊臣秀吉により弾圧されて、寺領を没収され衰退しました。関東に移封された徳川家康の保護により、勢力を回復しました。

北陸地方

  • 白山平泉寺・・・延暦寺末寺として、最盛期には8千人の僧兵を抱えて越前に勢力を伸ばしました。1574年(天正2年)、一向一揆との抗争で全山が焼失しました。勢力が弱まります。織田信長、豊臣秀吉と早くから結び、寺領を回復しました。
  • 石動山天平寺・・・真言宗の寺院で、山岳信仰の拠点霊場として栄えた。3千にも及ぶ僧兵を抱えた能登有数の勢力でした。1582年(天正10年)本能寺の変直後の混乱に乗じて、越後の上杉方についていた能登畠山氏旧臣が蜂起し、天平寺衆徒と共に石動山に立て籠った為、前田利家、佐久間盛政、長連龍らの織田軍に焼き討ちされて、壊滅しました。
  • 真宗大谷派井波別院瑞泉寺・・・一向宗の寺院で、越中一向一揆の拠点でした。1581年(天正9年)、織田信長の北陸方面軍、佐々成政の焼き討ちに遭い、軍事力を喪失しました。
  • 勝興寺・・・一向宗の寺院で、越中一向一揆の拠点でした。瑞泉寺と並んで越中一向一揆の中心勢力として猛威を振るいましたが、1581年(天正9年)に石黒成綱に焼き討ちされて、軍事力を喪失しました。
  • 尾山御坊・・・一向宗の寺院で、加賀一向一揆の拠点でした。織田信長の北陸方面軍、佐々成政に敗れ、軍事力を喪失しました。
  • 吉崎御坊・・・一向宗の寺院で、加賀・越中などの門徒を集め北陸における一向一揆の拠点となりましたが、1506年(永正3年)、九頭竜川の戦いで朝倉宗滴に敗れ、勢力を失いました。

東海地方

  • 諏訪大社・・・武田信玄に制圧されて、軍事力を喪失しました。大名家としては江戸時代に再興しましたが、神官家とは分かれることになりました。
  • 浅間大社・・・武田信玄による駿河侵攻に巻き込まれました。武田を相手に頑強に抵抗しましたが、穴山信君を通して降伏し、軍事力を失いました。
  • 本證寺 (安城市)・・・一向宗の寺院で、三河一向一揆の際には上宮寺・勝鬢寺などとともに一向宗門徒の拠点の1つとなり徳川家康に対して頑強に抵抗しましたが、1564年の小川の戦いで敗れ勢力を失いました。
  • 照蓮寺・・・一向宗の寺院で、帰雲城・城主内ヶ島氏と手を結んだことにより照蓮寺の勢力は拡大し、全盛期には大名に匹敵するほどの大勢力を築きました。三木氏の後に飛騨国を治めた金森長近はそれを恐れて、1588年(天正16年)、高山城城下に移転させるなどの弾圧政策を取り、勢力を失いました。
  • 願証寺・・・一向宗の寺院で、長島一向一揆の拠点として伊勢湾一帯を治める大勢力でした。織田信長に対して3度に渡って激しく抵抗しましたが、1574年(天正2年)の第三次長島侵攻で激戦の末に壊滅しました。

中国地方

  • 大山寺 (大山町)・・・天台宗の寺院で、鎌倉時代には3千人の僧兵を擁していましたが、度々僧兵同士の武力衝突を起こしました。戦国時代も勢力を維持しましたが、豊臣秀吉の刀狩りによって軍事力を喪失しました。
  • 鰐淵寺・・・天台宗の寺院で、広大な寺領と多数の僧兵を抱えた出雲有数の勢力となりました。戦国時代は毛利元就の手厚い保護のもと勢力を維持しましたが、豊臣秀吉の刀狩りにより軍事力を喪失します。
  • 出雲大社・・・鰐淵寺と関係が深く、同寺と並ぶ出雲有数の勢力でした。豊臣秀吉の刀狩りにより軍事力を喪失しました。
  • 厳島神社・・・広島湾一帯を支配する水軍を備えた国人勢力として活動しましたが、1540年(天文9年、吉田郡山城の戦い)で大内氏・毛利氏に反旗を翻して、尼子氏に付いたために、大内氏と対決します。しかし翌年、吉田郡山城の戦いは毛利・大内連合軍の勝利すると、大内氏に制圧されて、軍事力を喪失しました。

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九州地方

  • 宗像大社・・・大宮司であった宗像氏貞の時代に最大の版図を築きます。氏貞の後継がないまま急死した後に、豊臣秀吉の九州の役の際に社領を没収されて軍事力を失いました。
  • 阿蘇神社・・・肥後国一宮とされて崇敬を受け、広大な社領を有していました。当主・阿蘇氏は戦国大名としても活躍していましたが、豊薩合戦の際に、真っ先に島津氏の侵略を受けて降伏。さらに豊臣秀吉の九州の役の際に社領を没収され、大名としては終焉することになりました。
  • 宇佐神宮・・・豊前国一宮として厚い崇敬を受け、九州一の荘園領主として、また実質的に宇佐郡を中心とした国人領主の盟主として繁栄を誇りました。家末社にあたる八幡奈多宮出身の田原親賢が方分(守護代)となって以降、大友氏と敵対するようになり、焼き討ちされるとともに勢力を失いました。のちに宇佐神宮の社家出身の時枝鎮継(九州征伐後、黒田氏の家臣となっていた)は石垣原の戦いで大友氏滅亡に一役買うことになりました。
  • 英彦山・・・修験道場として隆盛し、最盛期には数千名の僧兵を擁しました。英彦山が秋月種実と軍事同盟を結んだため、1581年(天正9年)、敵対する大友義統による彦山焼き討ちを受けて敗れ、勢力が弱まりました。
  • 求菩提山護国寺・常在山如法寺・・・求菩提山護国寺は修験道場で、常在山如法寺はもともとその末寺の一つ。13世紀頃から所領を巡って対立を続けて、16世紀には大内氏の介入を招きました。

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